堺ブロックチーム シスターフエ
人は、生まれ、そして死ぬ。これは自然の摂理であり、誰も否定できないもの。聖書には、「人は永遠に生きようか。墓穴を見ずにすむであろうか。」(詩編49、10)と記されています。
しかし、多くの人はこの事実をあまり意識していません。私たちが日々関心を持っているのは、むしろ、人生の計画や悩み、夢や野心、そしてこの世での幸福を求めることではないでしょうか。イエスは、「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、主が帰って来られるのか、あなたがたにはわからないからである。」(マタイ24、42)と警告されました。
静かに自分自身を見つめ、人生について深く考えてみましょう。私たちの中には、親しい人や友人を亡くす経験をした人がいるはずです。そんな時、いつか自分にも同じことが起こるのではないかと考えたことがあるでしょう。
長い時間をかけ、母親は新しい命を宿します。しかし、その子がこの世に生を受けたその日に、命を落としてしまうこともあるでしょう。また海外へ行き、そこで事故に遭い、二度と会うことができなくなった父親や母親。夫を亡くし、幼い子供たちを抱える妻。兄弟を亡くし、深い悲しみに暮れる子供たち。彼らの心の痛みを言葉で表すことはできません。そのような時、聖書には「自分の名を付けた地所を持っていてもその土の底だけが彼らのとこしえの家。代々に、彼らが住まう所。」(詩編49、12)という言葉が心に響きます。
私たちはまだ若く、未来への希望に満ち溢れていると感じています。しかし、死は誰にでも平等に訪れるもの。若く健康な人であっても、突然病気になったり、事故に遭ったりする可能性はあります。人生は残酷で、競争には勝ち負けがあり、老いというものは容赦なく訪れます。そして、最後には誰もが同じようにこの世を去らなければなりません。
神様は生命の源であり、私たちに命を吹き込んでくださいました。そして、その命を取り戻す権利も神様にはあるのです。「主は与え、主は奪う。」(ヨブ記1、21)今日はあなたが、明日私が、誰でも平等にこの世を去ります。賢い人も愚かな者も、富める人も貧しい人も例外なくです。「人が見ることは知恵のある者も死に、無知な者、愚かな者と共に滅び財産を他人に遺さねばならないということ。」(詩編49、11)
11月は、カトリック教会では亡くなった方々のために祈る月です。特に、私たちにとって大切な両親や兄弟姉妹、祖父母、そして孤児の霊魂のために祈ります。また、この忙しい日々の中にあって、私たちは自分自身の人生について深く考える時間を持ち、イエス・キリストの復活への希望を心に抱きつつ、互いに祈りましょう。
特に災害や戦争など理不尽な出来事に巻き込まれて命をおとされた方々のご冥福をお祈りいたしましょう。